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尊厳って。 
母との同居が10年、その後5年間病院や施設に入退院を繰り返す母を見てきた私。
私がやってきた事を「介護」と呼ぶには
本当に大変な思いで自宅介護されてる方に対して申し訳ないくらいの負担度だから
でも、かといって「単なるお見舞い」と呼ぶにはもう少し責任を伴う立場にいるし・・
「付き添い」とか「介助」くらいのポジションなのかなー。

以前は、まだ周りには私と同じような環境の人は少なくて
(高齢出産で末っ子で生まれた私。同世代の友達のご両親はまだお元気な方が多い)
だから同じ悩みを共有する事がなかなかできなかった。

ところが最近
周りの友達にも、ボチボチそういう話ができるようになってきた。
今はまだそこまで深刻じゃなくても、他人事でもないと感じる友達が増えてきて
認知症患者を抱える家族の悩みとか
認知症自体が抗えない病気である事・誰より認知症患者自体が一番ツラい事、への理解とか
そういう事が少しずつ周知されてきたのかなという気がする。




まだ元気だった頃の母は、いわゆるキャリアウーマンで
仕事も男性並みに働き、車も運転し、晩年は旅行や趣味や楽しいシニア生活を送ってた。
「子供の世話にはなりたくない」
「寝たきりとかになったらすぐ死にたい」
なんて事をよく言っていた。

その母が
今では私が来るのを「まだかまだか」と、1日中待ってる。
特に突発的な用事がない限りは1日おきペースで顔を出すようにしてるけれど
ちょっとでも遅くなれば「どこに行ってた」「何をしてた」と質問攻め(^^;←結構私的にはオモい

認知症になると子供のようになる。
本能に忠実になる。理性が本能を制御する事がだんだん困難になる。
聞き分けのない子供と接する感覚じゃないとやっていけない。

ただ、私の方も、それは十分わかっていても
疲れてる時とか、忙しい合間を縫って行った時にも憎まれ口を言われるとつい腹が立ったりする。
人間だから仕方ない(^^;

時々
あの母が、こんな風になるのを望んでいるはずがない。
と思う時がある。

まだ母に理性が残っていたら、あの母ならば自分の尊厳を守る為に「早く死にたい」と言うだろう。
そう思う時がある。

「生きる」という意味を
ただ呼吸して食べて寝て・・それを「生きてる」っていうのだろうか。

たとえば、以前父親は、重篤な血管の病気で、片足の切断手術を余儀なくされた。
あの時も、私は、年齢的な事も考え、そうまでして生き続けなければいけないのかと疑問に思った。
だけど病院側は、患者の命を救うための手術はするけれど
「なにもせずに痛みを感じないように死なせて下さい」
なんて事はもちろん実行できない。
だからどんなに、本人にとっても、家族にとっても不本意であったにしても
生きるための医療を施さなければいけない。

もし将来、母が同じような病気になって
足や腕や、体のどこか一部を失わなければ生きられない、と決断を迫られたら
私は本当に悩む。
痛い思いをさせないで下さい。もう苦しみを引き伸ばさないで下さい。
正直そう思ってしまうからだ。
(誤解がないように補足説明しますが、身体の一部を失ってもまだ若くてこれから明るい未来がある方とは意味が違う)

「命」を軽んじるのか?
それは倫理的にどうなんだ?
私にそれを決める権利があるのか?
そういう葛藤もついてまわる。常に自問自答。そして答えはない。


ただ法律的な事を度外視すると
個人的に私は「尊厳死」を否定しない。

政治家がこんな発言をしたら
一斉に猛バッシングにあうだろうとは思うけど

私自身がさてその立場になった時を想像すると
私自身は「葉っぱのフレディ」みたいな終わり方に美学を感じる。

誰にも迷惑かけずに自分の理性があるうちに自分の最後を選びたい、と。

これは何も、自分の命を自分で絶つ、という意味ではなくて
たとえば70代くらいを過ぎたら、内蔵を提供するドナーの意思表示みたいな感じで
自分で基準を決めて
「自分がこれこれこんな状態になったらその時は尊厳死を選択します」
みたいな事を契約しとく、って感じ。

これは本当に誤解されたくないんだけども
「命を軽んじる」とか「お年寄りをないがしろにしてる」とか
そういう意味ではなくて
「生きる」って事の意味を自分ならどこに見出すか、その死生観は人によって違うから
私自身の死生観はこうなんです、って事なんですよね。


でも最近またわからなくなってきてる。

母に「季節の果物」を食べさせたりすると、「美味しい」って喜ぶ。
お散歩に連れて行くと、風が気持ちいいと言ったり
咲いてるお花が綺麗だと喜ぶ。

その「置かれた環境」で「その人にとっての喜び」が
どんな状況であってもあるのかなと
美味しいとか気持ちいいとか感じられる事はささやかだけれど幸せなのかな、って思う。

わかってるつもりになっていたけど
「幸せの基準」を
私は、今の自分のものさしで決め付けていただけだったのかな。
私自身もその時になったら
孫の成長を喜び、ちょっとしたTV番組でも楽しいと感じたり
季節の果物を食べて「来年も食べたいな」って思うのかもしれないなって思った。


これだけダラダラ長く書いて、結論はそれなのかっ。って感じだけども
だから結局
あるがままを受け止め、これから起きる事も受け入れるしかなく
そして何か問題が生じた時は、その時最善だと思う事をするしかなく
後悔しないように、さりとて自分を責めるのでもなく
ボールが来たらとりあえず打ち返し
どこまでラリーができるのか、できなければそれはそれで仕方がない・・そんな感じでやるしかないなと。

そういう結論に至る今日このごろです・・・。



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